はじめに

佐久間西渡の出会い


佐久間天竜下り中部乗船

天竜川流域の長野、愛知、静岡の各県をつなぐ歴史は古く、今より七千年前の縄文時代まで遡ると云われる。その事実として長野の和田峠でとれた黒曜石が静岡県の相良で見つかっており、古代人が天竜川流域を往還していたと証明されている。この当時伊那地方には東海系文化が伝わり、弥生時代には、東海、三河の二つのルートより稲作技術が伝わっている。稲作は古墳時代に入ると収穫は不安定な時代であったが、五世紀に入り大和王権が百済(朝鮮)との交流をはじめるようになると、新しい稲作技術が伝わり、稲作は平地で肥沃な伊那地方から信濃一帯に広く分布していった。しかし、北上した稲作は北遠一帯に於いては山間のために農耕に適さず、文化そのものは伝わるが、全てが北上したかと云うと自然条件によっては伝わらないものもあったであろうと想像される。

 飛鳥、奈良、平安時代には律令制による中央集団国家を確立するために、奈良ー近江ー美濃を経て、標高一五六五メートルの神坂峠を越えて信濃国から陸奥の国への東山道が大宝二年(七〇三)に開通したが、伊那地方と大平洋を結ぶ道は東山道が開通しても信濃、三河、遠江を結ぶ道は必要とされ、諏訪ー高遠ー長谷ー大鹿ー遠山ー青崩峠ー遠江への道は、小さな集落を経てつながり交易の道として利用されていった。後に江戸時代中期には秋葉信仰の道としても栄え昭和のはじめまで賑わった。

戦国時代におけるこの道は、武田信玄の覇権の道として利用され、天文十一年(一五四二)の伊那攻略から始まって武田勝頼が天正十年(一五八二)に信長に破れるまでの四十年間と云う長きに渡って信濃、遠江、三河地方は武田方と、織田、徳川方との戦が行われた。

中部渡船場付近の清流

戦の時代が終わり江戸時代に入ると、伊那地方では稲作を盛んにし、収穫を増やす為に水田開墾や治水事業が行われたが計画道理にはいかず、水田開墾が成功するのはずっと先の事であった。(静岡県側の治山治水事業と植林が本格的に行われたのは明治十年代からでそれも金原明善が私財を投げて行なわれたものである)天竜水系の木材は良貭なものとされ中世時代より朝廷に搬送され早くから天領地とされた。近世における林野の所有形態は、幕府や各藩所有の御林(公儀山林)、幕府直轄御榑木山、地域各村共有の入会山林、個人所有の百姓山等に大別されるが、当時筏で輸送された木材は、主に公儀の木材御林や御榑木山等から伐り出されたものといわれる。川下げされた木材は掛塚港まで運ばれ江戸におくられた。また榑木(桧、杉、椹などの良材を長さ五尺前後に輪切り、これを蜜柑割にして造る白木の板で、主に屋根財として用いた物)は管流しされ、いったん船明で水揚げされ検査の上、改めて筏に積み換えられて掛塚港へと運ばれた。

佐久間木材の搬出