photo : 昭和2年ごろの堀江村

1.はじめに

堀江というところ

「舘山寺温泉」と言えば今や全国にその名を知られているが、その名声のかげにかくれて、この地に堀江城があったことは、人々の心から忘れられようとしている。いな堀江という地名すら遠い過去のものとなりつつある。ただわずかに「堀江幼稚園」「堀江旅館」「旅館堀江の庄」などにその名残をとどめているにすぎない。
堀江という村がここに生まれたのは、遠く天文8年(1539)ごろ442年前であった。そして「敷智郡(ぶちごうり)堀江村となり、明治22年4月の町村制施行後は、「北庄内村堀江」であり、昭和30年4月より「庄内村堀江」となったが、昭和40年7月1日に浜松市へ合併したとき「浜松市舘山寺町」と変わった。

堀江城の跡

堀江の城跡には現在遠鉄会社の経営する遊園地があり、御陣山をめぐって個人経営の旅館、土産物店、飲食店その他数々の店が立ち並び、昔の城跡というイメージはすっかり消えてしまった。

古城研究熱

最近古城研究熱が、ブームとまではいかないにしても、相当高まってきたことは事実のようである。堀江城に関する問い合わせが各地の研究家から寄せられてくることや、ある新聞社がその紙上にかなりの長文記事を連載していることなどが、それを裏付けていると言えよう。
更にまた「地方の時代」を迎えたせいか、「ふるさとを見直そう」という声が高まり、その一環として古城の調査研究も取り上げられている。
思えば堀江城の20代にわたる城主は名門の家柄で、領民を治めること500年の長い間、庄内地方に善かれ悪しかれ大きな影響を与えてきた。しかも20代らわたる城主が同じ大沢氏の子孫であつたことは、全国にその例を見ない特異な存在で、浜松城においては、初代徳川家康から堀尾吉晴、松平忠頼、水野重仲、高力忠房など10余代の城主が交替している。

県下の古城と言われるもの

県下には古城と言われるものが意外に多いことにおどろく。わたしたちの調べでは時代や規模の大小に差こそあれ、100余城を数えることができた。 都市別古城名表

城というものは

城というのは一般的には敵を防ぐために築いた軍事的構造物のことで、最初は防禦用のものであったが、時代が進むと共に、戦うための目的ばかりでなく、国王や領主などが領民統治のために、権勢を示す役割を兼ねるようになった。
原始時代にも、山城の簡単なものと見られる九州地方の神護(こうご)、東北地方や北海道の「チャシ」などがあるが、大化の改新(646)以後、大陸からの進攻に備えるため、九州には朝鮮式山城が造られ、また東北地方には蝦夷に対する柵と呼ばれる城が造られた。九州における山城は、山中に土塁、堀、柵を設けたものである。
城の施設が発達したのは中世の末ごろ(戦国時代)からで、戦乱の長続き、戦争規模の増大、鉄砲の伝来による戦術の変化などがその原因である。
領主は政治を行うに便利なように、その領国の経済や交通の中心となる所に、城や住居を造る必要があったから、城は中世紀始めのように嶮しい山でなく平地の中央に進出した。丘陵を利用できれば、軍事的にはもちろん城の威信を領民に示すためにも好都合であったから、平野の中の丘陵が多く選ばれた。これを平山城といい、彦根城、姫路城などはその代表的なものである。堀江城もまたこれに属する。

2.堀江城の源流をたずねて

丹波国大沢村

貞治年間(1362-1367)に丹波国大沢村から大沢氏の祖、藤原基秀が堀江に下向して、城主として住みついたという大沢村とは、どんな土地柄であったのか、いまどうなっているのか、その大沢村をたずねていろいろ調べてみた。
大阪駅から福知山線に乗り換えて走ること2時間たらず、山また山、トンネルまたトンネルを抜けて篠山口駅に着く。ここは大沢村のあつた丹南町で、東方篠山町への入口となっている。
300m前後の山に囲まれた広い盆地で、北側の山の向こうには700mから1,000m前後の丹波高地がある筈だが雲にかくれて見えない。
駅に近い西紀・丹南両町の教育委員会を訪れて、かねて依頼してあつた郷土史研究家の斉藤氏を待つ。しばらくの後、斉藤氏の案内により、先づ「御所ヶ谷」に行く。大きな山頂城跡で、山のふもとに青くよどんだ御所ヶ池があり、これは内濠の一部だという。皇族方が住んでいたと伝えられている。ここ東吹に住む古城研究家の稲山氏がくわしい地図を持参して説明してくれた。
なおこの丹南町には字名が非常に多いことに驚いた。出発前に「郵便番号簿」で拾ってみたところ41もあった。
もう一つ、古城舘堡(かんぼ)の多いことである。山という山にはほとんどこの城か舘があったのである。

城の位置 城の種類
山頂 13  古城 12
尾根 7  古舘 13
山麓 8  古堡 8
平地 8  古宅 3

駅前の旅館で、選挙演説のガナリ声に目を覚して朝食も早々に、篠山城の跡を見て回る。この城は、徳川家康が大阪城攻略のための包囲城の一つとして築かれたもので、城域も極めて広く、内外の堀も幅40mを越え、家康がいかに遠大な計画で大阪城攻めを準備したかが想像できる。
旧家であり郷土史研究家である中沢氏の家を訪問して、深い研究の一部を聞くことができた。
彼の語るところによると、宝永(1104-1710)、寛延(1748-1750)、天明(1781-1788)の記録には、まだ大沢村は残っていて、領主の所領は大沢、大沢新、中野、味間(あじま)、新、杉、南、北、奥、文保寺などであったが、明治になって味間村に合併されてしまい、それ以後は、記録からも地図上からも消えてしまった、とのことでした。
藤原基秀は、遠江の国司として堀江に下向した。というのが通説のようであるが、今度の取材旅行で、中沢氏は、国司ではなく地頭として赴任したのではないか、と言う。国司の任命は朝廷で、中央の高位高官を兼任させる場合が例で、実際には任地に行かない、いわゆる遥任国司がほとんどであった。その上、大阪教育大学の宮川教授らの著述「大山村史」にも大沢の国司ということは出てこない。そして丹波と遠江のように二国を受け持つことは有り得ないとも言う。それにくらべると、地頭は鎌倉幕府が設置した職制で、荘園に置かれた荘官の呼び名で、荘園の管理経営、治安の維持、年貢や夫役の徴収などがその任務で、任命されれば必らず任地に行かねばならぬし、転任もあったのである。
どちらの役職で基秀が堀江に来たかは、にわかに速断はできないが、鎌倉時代には荘園制度は衰退期に入り、守護、地頭制度が始まると、それぞれ任地に赴任して、荘園における領主の勢力を侵害することが激しくなった時代である。これは、鎌倉幕府が謀反人を捕えるためや、平家残党の反乱を防止するためと同時に、公領や荘園の領主である朝廷や貴族の勢力を殺(そ)ぐための考えに基づくものであった。
若し基秀が地頭として赴任したとしても、南、北庄内、村櫛の荘が当時まだ実在したであろうか。恐らく地頭本来の任務は必要なかったのではないだろうか。
ともあれ、国司と地頭との庄内地方における関連、地頭と領主との勢力関係など、なお多くの課題を研究しなければ、基秀下向時の役職についての結論は出せないであろう。嘉永元年(1848)に書き始めた堀江村の新村松助の日記によると、地頭は昔からの習慣によって城主であったことがわかる。
大沢家の系譜表-1
大沢家の系譜表-2

大沢家とその系譜

堀江城主大沢家の祖先は、内大臣、大織冠であった中臣鎌足で、天智天皇の8年10月15日に、藤原の姓を賜ったが、その月に56才で死去した。
それ以後その子孫は藤原を姓とした。鎌足より12代目が、摂政、関白、太政大臣の要職についた藤原道長である。道長には男四人、女四人の子があったが、長男頼道が家督をつぎ、次男頼宗は別家して頼宗家の祖となった。この頼宗家には後で、遠州大沢家、但馬大沢家、丹波大沢家、姫路大沢家など七つの流れが生じたという。丹波大沢家を是非訪問したいと思ったが、丹南町には大沢の姓を名乗っている家はない。

藤原一族の住居跡と墓地

鎌足が育った有力豪族中臣氏の住居跡であろうと言われる遺跡が発見された。京都市東山区山科の西野山中臣遺跡がそれである。鎌足が活躍した七世紀半ばの須恵器、高坏、つぼ、食器などの土器が、最近ほぼ完全な形で掘り出された。また、これまで墓地の一角と見られた丘陵地帯からも、竪穴式住居跡と高床式建物跡が見つかり、これまでの調査によると、約2千戸を上廻る近畿地方最大の村落であったろうという。
藤原氏興隆の基礎を築いたのは冬嗣であるが、宇治陵はその冬嗣が造った墓の始まりである。全部で320基の古墳が散在するが、これがすべて藤原氏一門の墓である。年を経ているので誰の墓かわからず、便宜上番号で呼ばれる。34号は冬嗣、35号は時平、36号は基経の如くである。

持明院家の由来

明治初期に起った堀江城の「万石事件」は城内に混乱をもたらした。この事件に関係して登場したのが持明院である。万石事件を理解する上で、持明院の由来を知っておくことも無意味ではないと思われるので、なるべく簡単に書き添えておく。
藤原道長の曾孫基頼の子通基が建てた持明院であるから、通基の家名を、持明院家という。京都新町通り上 立売上ル安楽小路の西側に、光照院がある。門跡(法親王が住職となっている寺院の尊称)尼院で常磐御所といい、始めは室町一条の北にあった。
ところが文明年間(1469-1486)の応仁の乱から、続いて起こった京都の徳政一撥のために焼かれて安楽光院の跡に移った。現在の光照院を含む広い地域が持明院の跡である。
平安時代(794-1181)の末、ここに藤原基頼の邸があり、持明院はその持仏堂だった。基頼の子通基のとき九間四方の堂宇を修築して持明院と号した。通基の子基家の娘陳子(のぶこ)は、守貞親王の妃となってここを住居とした。
守貞親王は高倉天皇の皇子であったが、気弱な性格だったので世に忘れられていた。ところが幕府の勢力が伸びるのに対して、朝廷の実権を回復しようとして起こった承久の乱(1221)によって、後鳥羽上皇たち三上皇は配流の身となり、主謀者も処分されて武家政治が確立した。
ここで鎌倉の沙汰によつて、守貞親王の子茂仁親王が、持明院家から閑院宮の御所に入って、後堀河天皇となった。そして守貞親王には太上天皇の尊号がおくられ、後高倉院と称した。
さて、後嵯峨法皇が崩御ののち、皇統が両統にわかれて皇位継承を争い、ついに南北朝時代の風雲を呼ぶことになった。藤原基秀が堀江に下向したのは、この南北朝時代の中ごろである。亀山天皇の大覚寺統に対して、後深草天皇の流れを持明院統と言った。持明院統と呼んだのは、伏見、後見両上皇が持明院を御所にしていたことによる。
皇位の行方によって一栄一落するさまは、まことに激しく後醍醐天皇に皇位をゆずった花園上皇には仙洞御所を営む余力すらなく、兄の後伏見上皇の持明院に同居せざるを得なかった。持明院は文和二年(1353)に焼失して、ついに再興できなかったが、大覚寺は現存している。

3、堀江城の初期

堀江に下向した藤原基秀とその系譜

貞治年間(1362-1364)今から約615年前、丹波国大沢村から藤原基秀が堀江に下向した。どういう使命を持ち、どういう役職で来たのかは、前述のような理由からいまだ結論づけられないが、地頭職として赴任してきた、というのがやや有力のようである。
さて来てみると、どこに居舘を構えるかに相当悩んだことであろう。諸所を回って調べたあげく、敵を防ぐ点からも統治上からも、更には風致上からも、堀江のしかも湖に面した小高い丘 のちに御陣山と呼ぶ が最適地と判断したのである。面積はおよそ九万九千 。
城は湖と沼にかこまれた離れ小島のような丘の頂上に築いたのである。
そのころ、庄内地方には、堀江に愛宕神社、協和に医王寺、呉松に曾許乃御立(そこのみだち)神社、平松の八幡神社、堀江の舘山寺、呉松、内山の両津島神社などが建てられており、氏子、檀家や農漁業者など相当数の人達が生活していた。

藤原の姓を大沢と改めた基久

世紀1200年から1400年にかけて、藤原家藤、基秀、基久のころは、鎌倉では頼朝の死後、頼家、実朝いずれも政治的能力に乏しく、頼朝の妻政子の親である北条時政を中心とした13人の合議制による政治を行った。しかしこの北条時政もおとろえ始め、南北朝50余年の終りを告げようとしてしているところであった。同時に遠州生まれの「堀江っ子」基久が家名を大沢と改め、遠江国守護職の斯波氏に属して、武将としての第一歩を踏み出した時代でもあった。 基久は父基秀の後をついで堀江の地に永住する決意をして、ふるさと丹波の大沢村の地名を姓としたのである。永住するからには、領内の土地の状況や領民の生活状態をつぶさに知っておく必要があるとして、庄内一円を巡視した。もの珍しさやある種の期待と不安を持ちながらも領民たちは、歓迎をし様々な記念行事を行った。その一つが、呉松の津島神社境内の植樹事業であった。多くの松や杉を植えたが、長い歳月を経て巨松老杉となり、神域を一層おごそかにし、神々しくした。
しかし、天保六年(1835) 全国的な飢饉に加えて、大暴風におそわれ、老松二本が倒れたのを始めその後も相次いで枯れたり倒れたりして、昭和に入ってついに大松一本だけが生き残った。県道に近い境内に亭々としてそびえる姿は実に見事なもので、呉松川にかけた橋を松見橋と名付けたことも故なしとしない。目通り4.45m 、高さ25.93mもあり、枝のひろがりは南へ11m、東へ6.5m、西へ6.3m、北へ4.6m ほどあった。
このような由緒を持ち、しかも長寿を保った老松のため、浜松市教育委員会では昭和45年10月23日に市の文化財(天然記念物)に指定した。
ところが、生あるものはいつか滅するのたとえの如く、昭和50年8月4日の午後二時ごろ、全くの無風でありながら突然、10mの高さから周り1.5mほどの太い枝が、地ひびきを立てて落下した。
数年来老化現象が見られたので、たびたび補強策を講じてきたが、もはや生命の限界に達したことを示すもので、人名や人家に危害を及ばさぬうちにと、同年8月19日、市教委の了解のもとに、心ならずも切り倒した。およそ600年の生命、よくぞ生き続けたものと、しばし感慨にふけったものである。

今川氏に降った基房

南北朝合体によって混乱は治まり、守護大名が成長して公家政権は事実上消滅し、延元元年(1326)足利尊氏が室町幕府を開いた。
けれども大名の勢力が増大するにつれ、相対的に幕府の統勢力は弱まり、大名の幕府に対する反乱が相次いで起こった。

●明徳の乱

3代将軍義満の明徳2年(1391)6分1殿 (全国の6分の1を領有) と言われた最大の大名、山名氏清の勢力を押さえようとした義満との間に争乱が起り、氏清は義満に滅ぼされた。

●応永の乱

明徳の乱後8年、応永6年(1399)10月、これも当時有力な大名であった大内義弘が、義満に対して不満を持ち、鎌倉公方足利満兼と結び、東西呼応して堺に兵をあげ、極めて大規模な反乱に発展したが、義弘は敗死して乱は治まった。

●永享の乱

応永の乱から39年後、将軍義持の子義量が早世して後つぎが無かったので、義持の弟義円が僧から還俗して義教が将軍となった。義教はおとろえた幕府の権威を取りもどそうと考えた。
鎌倉公方は初代足利基氏以来、常に幕府と対立していたので、持氏(満兼の子)のとき、ついに義教と衝突した結果、持氏は自殺して鎌倉公方はほろぼされた。

●嘉吉の乱

赤松満祐は常に義教から圧迫を受けていたところ、義教は将軍の権力を過信して勝手な政治を行ったので政治不安を増大させた。満祐は自分の家に義教を招いて暗殺したが、満祐も幕府の軍に攻められて自殺した。

●応仁の乱

以上のような混乱したなかで、将軍家や諸大名たちの内紛が直接の動機となつて、京都を舞台に10年間の激しい戦乱が続いた。応仁元年(1467)から文明九年(1477)に及んだ応仁の乱である。
細川勝元側の東軍は24ヶ国の兵16万余、山名宗全側の西軍は20ヶ国の兵11万6千が戦ったのであるから、京都の内外は焼野原となった。
応仁紀に、「汝(なれ)や知る都は野辺の夕ひばり あがるを見ても落つる涙は」とある。 応仁の乱を契機として室町幕府は、その封建的支配者の地位がくずれ、所々に一撥が起り守護地頭の独立となり、混乱と破壊が続く戦国時代に突入したのである。
この動乱は、織田、豊臣政権の成立まで約百年続いたが、この動乱のなかにも、古い秩序がこわれ、新しい勢力が芽生えてきたのである。
各地に群雄が割拠したが、中でも奥羽地方の伊達氏、関東地方の北条氏、中部地方の上杉氏、武田氏、織田氏、今川氏、近畿地方の浅井氏、中国地方の尼子氏、大内氏、毛利氏、四国地方の長曾我部氏、九州地方の島津氏、大友氏などはその最有力者であった。 今川氏は駿河を本拠として遠江にまで勢力をひろめようとした。
大沢基房は、斯波氏のために今川氏に反抗する姿勢を示していたが、遠江に兵を進めた今川氏の武将伊勢新九郎(のちの北条早雲)の勢いが意外に強いのを見て、戦わずして降った。その他の斯波氏方の兵も降参したり、あるいは防ぎきれずに逃げ去って、天竜川以西浜名湖に至る地域は殆んど今川氏に属するようになった。
機を見るに敏であったのか、或いは恐れをなしたのか、いずれにせよ基房は戦うことの不利を悟って、いち早く降参した。大沢氏のような名門が、一戦も交えず降ったことは、その後の今川氏が遠江経略に大きな手助けとなったことは事実で、それ故にこそ、今川氏はその功を賞されて、浜名湖周辺の地を従来通り与えることにした。

  当所領の家役、御知行たるべき間、
  守護代奉書の旨を任じ、
  年貢諸公役は先規の如く
  其の沙汰致すべきものなり。
       永正元年8月1日 宗端 大沢殿

その後基胤が家康に降った永禄12年までの65年間、大沢氏は今川氏に属して各地に転戦した。
伊勢新九郎は、伊豆においても次第に勢力を加え、勢いに乗じて小田原城を攻略するに及んで、北条早雲と称し、そこを居城とした。
続いて関東の上杉氏を追い、更に反転して松平長親の岡崎城を奪取しようとして兵を進めた。しかし松平勢は少数ながらよく応戦して屈せず。そこで早雲は、降参したばかりの堀江城に使者を出して出兵を命じた。基房は直ちに城兵を引きいて進発し、早雲と共に岡崎城攻略にかかったが、ついに落城させることができず、止むなく引きあげることになった。今川勢は駿河、遠江、伊豆、相模、東三河の兵1万余、岡崎城兵はわずか1300であった。
遠江にあった斯波氏は今川氏のために追撃されて、その大部分は降参したが、この地を逃げ去った者は、今川勢が去ると、ひそかに連絡し合って残兵を集め 今川氏の属城を攻めようと謀った。こうした企ては度々あったが、そのつど今川勢に追い散らされて目的を果たさなかった。永正六年(1509)にもまた、今川氏の属城二俣城を襲うとの情報が、今川氏の属将朝比奈泰熈の掛川城に入った。そこで城主朝比奈は堀江城に書き送って、「大瀬、有玉、市野、小松、平口に陣を敷き、11月25日を期して、掛川勢と共に一挙に敵をほろぼそう」と依頼した。
基房はこれに応じて直ちに出兵し、斯波氏の残党を追い散らして、一旦曳馬に引きあげ様子を見ていたが、やがて城に帰った。

戦国争乱の遠江

戦国時代に大きな権力を持ったのは守護職であった。従って守護の地位を得るためには、各地で争いが絶えなかった。いわゆる弱肉強食の世である。遠江国でもその例にもれなかった。試みに元弘3年(1333)から永禄11年(1568)までの235年間の遠江国の守護職の推移を見ると、

今川範国 1333-1338
仁木義長 1339-1343
千葉貞胤 1346
高野師泰 1347-1349
今川範国 1352-1365
今川貞世 1378
今川仲秋 1388-1399
今川泰範 1400-1401
斯波義重 1405-1407
今川泰範 1407-1413
斯波義淳 1419-1433
斯波義郷 1433-1436
斯波義健 1436-1452
斯波義敏 1452-1460
斯波松王 1460-1461
斯波義廉 1461-1466
斯波義敏 1466
斯波義廉 1466-1467
斯波義寛 1491-1501
斯波義達 1502-1508
今川氏親 1508-1526
今川氏輝 1526-1536
今川義元 1538-1560
今川氏真 1560-1568

基房が今川氏に降ったのは永正元年(1504)で、右の表に見る如く、守護職であった斯波氏の勢いも下降線をたどり、同時に今川氏の勢力が伸びつつあった時で、基房が降伏する決断をしたについては、次の二点が複雑にからみ合ったあげくの結果であったろう。すなわち斯波氏の長年にわたる恩義と、前途に見切りをつけたことで苦しんだことであろう。
遠江における斯波、今川両氏の衝突は度々あった。

文明二年(1470) 本坂峠
文亀三年(1503) 横地村
永正六年(1509) 二俣城
永正九年(1512) 堀江城
永正十年(1513) 志津城
永正十年(1513) 曳馬城
永正十一年(1514) 三嶽城
永正十一年(1514) 曳馬城

次号につづく


●戻ります●