浜名湖畔歴史探訪記

堀江城物語

シリーズその3

文 宮本七郎


写真・図

●大沢家の墓のある宿芦寺●
●大沢基胤の墓●
●基寿が着用した羽織●
●宿芦寺にある大沢家の墓●


●戻ります●


堀江城を攻めた武田軍

戦国の世は百年の長い間続いたが、多くの郡雄に先がけて全国統一の事業を大きく進めたのは織田信長であった。
信長は越前国の織田の庄の役人で、のち斯波氏の家臣となり、尾張を支配するようになった。
永禄3年(1,560)尾張に侵入してきた今川義元を桶狭間(おけはざま)に破り、永禄11年足利義昭(15代将軍)を迎えて京都に入り「天下布武」の旗を用いて、全国統一の意志を明らかにした。
その後信長は、姉川の戦いに浅井、朝倉両氏を破り、廷暦寺を焼討ちした。これを見た武田信玄は、元亀3年(1,572)軍を遠江に進め、三方原で家康の軍を破ったが、その翌年に雄図むなしく病死した。信玄も信長と同様に、折りあらば京都に上って天下に号令しようとする野望を持っていた。信玄が甲州から南下するとなると、当然家康と対決しなければならない。そのために越後の上杉謙信や関東の北条氏政と相互援助条約を結んで、背後の不安を除いた。そして三方原での一大決戦が始まったのである。信玄の3万の大軍に対して、家康軍は5千人、信玄の援軍を合わせても8千人。その信玄は、中遠に進んで家康の前線部隊との連絡を絶ち一挙に三方原に進撃した。
しかしどういう作戦上の考えなのか、信玄がその一部の軍を割(さ)いて、堀江城を攻めるとの情報を得た堀江城主大沢基胤(もとたね)は、家康に援軍を求め、松下玄番(げんば)と共に防戦の体制を取り、家臣を向坂(むかいざか)の天王平に出陣させた。この時大沢譜代(ふだい)の家臣山下理兵衛は、武田方に寝返って武田軍を案内した。武田軍は大草山と館山の湖上百間に舟橋をかけ、12月24日の夜明けを待って館山に入った。
これを見た城兵たちは、「この大敵ではとても防ぐことができそうもない」と言うと、基胤はしばらく考えてから「合戦の習い、勝負は時の運によるけれども、少数が多数に負けるとは決まっていない。この城はあくまで守れと家康殿から松下殿を加勢によこされた。この上は最後まで戦い忠義のほまれを後世に残そうと思う」と堅い決意を示すと、城兵たちは急に元気づいて、例の如く鐘や太鼓を打ち鳴らして気勢をあげ、討死を覚悟で弓や鉄砲を構えて、寄せ手やおそしと待ち受けた。
ところがどうしたことか、武田軍は一戦も交えずして囲みを解いて引きあげた。
大沢の家来は後を追った。そして和地山で追いつき、新村源太郎は敵と組んで崖から谷へ落ちたが、押えつけて首を取った。この間にも敵はどんどん引きあげて行った。そこで長追いは無用と大沢勢も城へ引きあげた。

基胤が長篠城攻略戦に参加

この時から三年後の天正3年(1,575)、武田勝頼は、将軍足利義昭から信長を討つことを頼まれた。勝頼は、三河の長篠城がかって家康に奪われたので取り返すために攻撃を加えた。家康は信長と同盟を結んでいたので、信長に援軍を求めた。堀江城の基胤も家康軍の酒井忠次に従い、家康、信長連合軍の一隊として、勝頼、義昭の軍と戦った。
この合戦で信長は、鉄砲隊を編成してわが国初めての野戦における集団的使用を試みて、偉力を発揮し武田軍を壊滅させた。
遠江の一角にあって武名を近隣に鳴らし、永禄十二年には家康軍との攻防で家康を手こずらせた基胤も、長篠城攻略戦から三十年後の慶長十年(1,605)6月28日、80才の長寿をまっとうして死去した。
法名を、月江院殿雪天長盛大居士(こじ)と言い、江戸小石川の禄雲寺に葬った。
基胤の妻は入野村の木寺宮の娘定姫で、寛政7年(1,630)9月22日に死去し、同じ禄雲寺に葬った。
木寺宮は後二条天皇の皇子邦良親王が木寺宮と称し、その子康仁親王が入野村に住した。
基胤生前の武と徳と智を慕って集まった勇士は数多くあったが、中でも中安兵部、権太織部、山崎権太夫、山下七郎右ェ門、真瀬将監、山村修理、尾藤主膳などがその勇名を後世に残している。

基宿(もといえ)の特別叙位と高家

(イ)天下統一の豊臣秀吉

信長が本能寺で天正10年(1,582)明智光秀に殺されたのち、秀吉は信長の武将たちと清洲会議を開いて、信長無きあとの前後策を協議したが、その後、伊勢の滝川一益を攻め、柴田勝家を近江の賎(しず)ヶ岳に破り、越後の上杉景勝や加賀の前田利家の和睦を受け入れた。
秀吉は、天正十一年大阪城を築いて全国統一の本拠とし、京都や堺の商人を呼び集めて、政治、経済の中心にふさわしい都市を整えた。
その後家康と和を講じて、四国の長曽我部(ちょうそかべ)元親を降し、島津義久を攻めて九州を平定し、反転して小田原の北条氏を攻略して関東を征圧した。次いで奥羽の伊達正宗が降伏してきたので、ここに全国統一の事業はほぼ完成した。
秀吉が全国統一に至るまでの基本的姿勢は、戦わずして敵に勝つことであった。小田原攻めも、始めから兵を出したのではなく、再三再四使者をやって利害を説き、自ら譲るべきは譲った。それでも従わない時に初めて武力で征したのである。伊達氏や、上杉氏は秀吉の言を聞いて討たれずにすみ、北条氏や島津氏は聞かずして討たれたのである。

(ロ)基宿の転戦

天正8年(1,580)5月、家康が3回目の田中城(藤枝)攻撃のとき、今川の武将である持船(用宗)城主朝比奈信置の軍と戦い、基宿の臣新村新七郎は抜群の戦功を立てて、家康から感状と槍一振(ふり)を授けられた。
天正10年9月には基宿は、家康の重臣本多重次に従って、三枚橋城(沼津)の合戦に参加した。この城は、武田勝頼が家康への備えとして築いたものである。
また天正12年3月には、尾張の小牧山合戦に際して家康の命により、中安兵部や三宅(みやけ)惣右ェ門と共に、清洲城の二の丸を守った。
天正18年(1,590)の小田原合戦の時には本多忠勝の手に属して、武州岩槻(いわつき)城を攻めた。秀吉の勢力に対して全国の武将は殆ど靡(なび)いたが、ただ一人頭を下げなかったのが、伊豆から関東にかけて強大な支配力を持っていた北条氏直であった。秀吉は、この実力者が自分の思うようにならぬことは、他の武将に対してしめしがつかぬと考えて、政略に踏み切ったのである。

(ハ)基宿の特別叙位>

>戦国争乱もすでに80余年を過ぎて、分裂と混乱の中からようやく統一への気運がきざし始めた。全国統一の糸口をつけたのは織田信長であるが、豊臣秀吉がその志をついで目的を達成した。
そこで秀吉は、京都に豪華な聚楽第(じゅらくだい)を造営して、後陽成天皇の行幸を仰ぎ、家康以下の諸大名を集めて、皇室を尊崇(そんすう)し、関白の命令に従うべきことを誓わせた。天正16年(1,588)三月のことである。
この成典に参列するため、家康は多くの随兵を従えて入京した。しかしまだ油断のならない世のこと、家康は秀吉の妹を妻にしていたとは言え、決して秀吉を全面的に信用してはいなかった。万一、自分が入京したとき、秀吉の裏切りがあってはならぬと、備えは怠らなかった。すなわち、駿遠三甲信の兵はおよそ4万3千あったが、そのうち1万2千は随兵、残り3万1千のうち2万1千をわけて甲信の守りと浜松の留守隊とした。そして残る一万で岡崎を守ることにした。
秀吉は家康の入京を大変喜んで、家康に七つ台のうちの博多台、竿頭の水差、金森所有のカタシキニチ貫、宗易所持の小鳥の天目、羽つきの竹杓(びしゃく)など天下の名器に精米三千俵を添えて与えた。
また翌日、聚楽第の一室に家康を招いて接待し、行幸の前にとて随兵大沢兵部大輔基宿と、井伊兵部小輔直政の二人を従五位下侍従に叙し、他の将士にもそれぞれ爵(しゃく)を授けた。
その中で特に大沢基宿と井伊直政の二人にのみ従五位下侍従を授けた訳は、大沢は藤原鎌足十二世の孫道長の次男頼宗の後裔(こうえい)に当り、井伊も同じく藤原鎌足十世の孫共資(ともすけ)(志津城主)から十七世の孫に当り、共に門葉の高いのによるとは言え、この二氏がこのたびの盛典に参列することになったものの、京都の事情に通ずること浅く、かつ皇室に奉仕する機会も無かったので、諸大名にくらべて肩身のせまい思いがあっては、との配慮からと思われる。
元来、行幸前の叙位叙爵は特例であるが、秀吉は天皇に奏上して、特に徳川の家臣のみに許されたのである。

(ニ)関ヶ原合戦に戦功を立てる。

秀吉は天下統一の事業を達成すると、その余勢を駆って大陸に進出しようと計画した。
文禄元年(1,592)秀吉は肥前(佐賀県)の名護屋(なごや)に本陣を設けて自から出陣し、加藤清正、小西行長、小早川隆景、宇喜多秀家らに陸軍19万、籐堂高虎、九鬼嘉隆(よしたか)らに海軍9千を与えて進攻させた。
ところが平壌(へいじょう)附近で明(みん)の李如松(りじょしょう)のために大敗したが、明の「秀吉を封じて日本国王とする。」という書を受け取り、秀吉は大いに怒って、慶長2年(1,597)再び外征を命じたが、その翌年伏見城で病死した。
秀吉の死後三年目の九月に、天下分け目と言われた関ヶ原の合戦が始まった。基宿は10月この合戦に家康の本陣のすぐ前に布陣した本多忠勝の軍に属して戦い、大きな功績をあげたので、戦後遠江国敷智郡のうち6ヶ村1,556石を与えられた。

(ホ)高家に列せらる

近代の封建社会が成立し、徳川幕府3百年の基礎が築かれたのは、家康が征夷大将軍に任じられた慶長8年(1,603)であった。
基宿は慶長14年従四位下右近衛権(うこんえごんの)少将に叙せられ、次いで権中将、高家に列せられた。
幕府の職制は複雑多岐であるが、その骨格となるものは、将軍 大老(常設ではない) 老中 側用人 若年寄 三奉行(寺社、勘定 江戸町)などで、高家は、側聚、留守居(るすい)、田安家老、一橋家老、大番頭、大目付などと共に老中の支配下にあった。
そもそも高家というのは、室町幕府では将軍の一族を指したが江戸幕府では一職名で、幕府の儀式、典礼を司(つかさ)どり、勅使の接待、朝廷への使節、伊勢、日光などへの代参に当たるほか、交替で江戸城に当直した。
高家とは元来、「高」名の「家」柄という意味を持ち、室町幕府以降の名家で家禄3,550石(宝永の頃)の大沢家を筆頭に、最低は500石。
貞丈雑記には「高家の始まりは、大沢兵部太夫基宿、吉良上介義弥(こうずけのよしやす)、大沢左京亮重比仰付けられしが始めと見えたり」とある。
また大阪大学教授宮本又次氏の朝日新聞紙上の随筆によれば「高家の起りは慶長8年(?)に持明院家の流れを汲(く)む大沢基宿を高家にあげたのに始まり、寛永14年(1,637)には足利氏の庶流吉良上野介義弥を選んで高家にしている。のち次第に数を増して、畠山、戸田、京極、今川、大友、織田など一時は26家にも及んだ。いずれも世襲(せしゅう)である。」と、高家のことについては、明治初年に大沢基寿(もとひさ)(堀江城主20代最後の城主)が、過去を思い出して語った話が「幕末の武将」という本の中に詳しく書かれているので、高家の地位、役目、生活内容などを知るために、やや長文だが次に揚げる。( )内は著者の説明による。

高家の話 大沢基寿の談話

私は戌辰(明治元年)瓦解の節には右京太夫と申しまして、幕府に勤めておりました。大沢と申す家は持明院の末流で、高家の始めでござります。旧記は散逸いたして何もございませんが、徳川家の始めに当り当時の二条関白某公と計り、足利時代の諸礼式を調べ式部の一職を設けんとて、大沢、吉良の両家を挙げて、高家と称し諸礼式を司(つかさ)どらしめましたのが起源でござります。その後高家と称えまする家もだんだん増加いたしましたが、今川の末か織田氏の後で位階を高くし、ことごとく有職(昔からの儀式、典礼、装束(しょうぞく)などを研究する学問又はその人)を以て世襲の役と致しました。武鑑(ぶかん)(徳川時代の大名の姓名、紋章、知行高及び家来の姓名などを記した書)で高家をお読みになればわかりますが、六角と申すは鳥丸の末、或いは新旧の流れの由良などもござります。
大沢家は遠州の堀江、堀川の二城を持ち、今川に属したが家康公の時に徳川氏に従いました。高家のうちで高禄なのは畠山の5千石を第一とし、小禄なのは品川の3百石でした。私の家は3千5百石でした。高家の知行はみな地方(ぢかた)でした。高家の役高は1,500石と定めてありました。
王政維新まで公武の間のことは高家の役と定めておりました。幕末には御所と二条城の間の往復は高家が致しておりました故、大政奉還の時には私がその辞表を御所へ持って参りました。
またその時の私の官位は従四位下の待従で、昇殿のできるわけでした。私の旧宅は飯田町俎橋(まかないばし)の向うで、小出の隣邸でござりました。
高家と申す家柄は諸儀式のほかの文武官には任じません。
もしも他の役に就きますれば高家はやめて寄合(よりあい)席に入りましたものです。高家の役目は種々ございました。一番に大切なのは、毎年正月の元日、2日に将軍家のお流れを賜わる式です。高家の致しまするは、御三家(尾張、紀伊、水戸)御三郷(田安、清水、一橋)国持大名(島津、伊達、黒田、細川、浅野、毛利、鍋島(なべしま)、池田、籐堂、蜂須賀、山内、上杉など)四品(しほん)以上で、それ以下は御中小姓の役でござりました。その式は中々面倒でございます故、暮の二十日からお給仕の稽古をしたものでございます。着服は直垂(ひたたれ)でした。
元日、2日は焚火の間にて炉を切り火をたきます故、手をあぶりて御用をいたします。この元日、二日のほかは伝奏(取次後)の下られまする時が大事です。
平常の諸所(つめしょ)は雁(かり)の間です。日々高家と雁の間詰の御奏者番一人ずつにて、閣老の登城、退出に送り迎えて、閣老のお廻りの時に御機嫌を伺いました。平常の服は継上下(つぎかみしも)でした。また往来の途中で御三家に逢いましても、駕篭(かご)のままで降りませんでした。もし高家が降りますと御三家も降ります規則でした故向うの便利からこちらで降りなかったのです。
肝煎(きもいり)(世話役)となりますと、役得というものがあったそうです。前に申しました元日、二日のお流れ頂戴(ちょうだい)の式は、御三家には三方へお盃(さかずき)をのせて出しますが、このほかの方には長柄の口へお盃をのせて(盃はカワラケ)つぎます時に頂く人が盃を取り落とすことがあっては失礼ですから、前から高家へ向い合わせ、来年のお酌は誰様と聞きおき、国産の品などをその高家の家老や用人などに贈って歓心(かんしん)を求めましたそうです。それですから吉良上野介をやればやれたのでしょう。あの元禄の浅野の前年の玄猪(げんい)は、私の家の当時基恒と申す者と、例の上野介と何か衝突(しょうとつ)いたし殿中に争論がありまして、「大沢吉良門答禄」という書がござります。大沢も吉良も高家の肝煎であったそうです。私の家の基恒はその年に死去いたしましたから、浅野の時には上野介一人が古株でした。それに元禄の時代には高家の数も少なかったそうです。
高家には表と奥の2つがあり奥高家は抜擢(ばってき)せられた者です。私は幼年の頃から奉職いたしました故、親子勤め(3年間)でございました。14才の時から勤めました。高家は役に出ますると、杖を許されました。正月の2日には台付の御時服を頂戴いたし、一年中には正月に伊勢へ御名代、正月、5月、9月には日光へ御名代、京都へ1度でございます。
公式の間のことは何でも伝奉の公家に問い合わせました。京都には上使屋敷、または高家屋敷と申すがございました。大政奉還の御書附は飛鳥井(あすかい)中納言へ渡したと思います。口宣案(くぜんあん)(五位以上の官位を授ける時頭弁(とうのべん)が勅命を受けて口(くち)づからこれを伝えた)も位記も(しかし位記は返上するな)ということでした。
御所の中には鶴の間が高家の詰所です。毎年高家が上方へ参りますときに、武家補任をひとかためにして年始のついでに申したものです。このほかは、上野の宮様への御使者、御法事の時の御使者などがあります。
道中を致す時には、伝馬の御朱印と申す四角な印を押したものがありまして、人足八人と書いてありますが数を限ったものではありません。この御朱印があると道中奉行に申しまして、人足を出させたものでございます。
禁裏(きんり)(宮中)より御太刀(たち)を将軍家へ進ぜられることがありますが、頂戴の御太刀は御床へ置き、後に御納戸へおさめます。また公方とは京都では決して申しません。幕府の臣下より申したものです。
高家の着きました直垂(ひたたれ)はそのころで20両ぐらい、衣冠(いかん)は30両ぐらいかと思います。京都へ参りましてもお公家とは交際は致しません。つまり高家の方が金を使って損となります。道中へ参る前には将軍家から羽織1枚を頂戴いたします。その色は黒とお納戸で、他はチリメンです。御時服は3枚です。

羽織の色は、お納戸坊主へ金1両贈って頼むと、黒でもお納戸でも好みのものが頂戴されました。
御時服の地は、亀綾(かめあや)かチヂラか板か綸子(りんず)、沙綾(さや)、羽二重などでした。しかしチヂラは四位以上、板は四位以下などと定めがありました。
官位は高家になると、即時に従五位下待従になります。また前に申しました日光その他へご名代に参ります時は、必らず将軍家へ拝謁し、帰りますと登城を致し、着服は熨斗目(のしめ)麻上下にて、閣老の案内で脱釼はしますが、御座の間の御上段にあがって復命を致します。伊勢の大廟(たいびょう)と日光宮へ参りました時には、将軍家も御口上(こうじょう)を申し上げる間は、御平伏になります。全く大廟と御宮を御尊崇の理でござりましょう。
その口上は、何日何時何々、天気よくとどこおりなく相済む、と申す事だけです。脱剱は御廊下で致し、閣老も御前へは脱剱でござります。伊勢と日光のほかは閣老が御披露を致します。将軍家は御脇差(わきさし)だけでございます。
前に申しました元日、2日は、将軍家は御直垂、侍従以上も直垂ですが、四品(しほん)以上は狩衣(かりきぬ)、その他は大紋素袍(すほう)布衣、或いは長上下などを用います。御盃を賜わる者多人数の事ゆえ、ほかを御覧になりなどする時は、高家が捨土器(すてわらかけ)を取りて、膝行(しっこう)してくるところの大名に渡し、酌をすることなどもござります。冠(かんむり)の組は例の紫の紐緒(ひもお)を用います。これは飛鳥井家のの許しを受けなければなりませんが、立派ゆえ許しを受けて紐緒を紫に致します。
新役と申して、初めて詰所へ出ます時は、3日の間は手をたたみへ置き肱(ひじ)をついたきりで、みだりに顔を上げることはできません。詰所には茶盆と火鉢がございますが、火鉢に火はなく煙草をのむ時はカチカチと燧石(ひうち)でやるのです。新役はまた古参の弁当の給仕をしなければなりません。自分の弁当は早く食べて後片付をするのです。煙草も師匠番(ししょうばん)から許されてからのむことが出来るのでして、役を勤めまするには別に深いことはなく、手留(てどめ)と称しまする憤例の控帳があり、憤例の通りにすればよいのですから、有職などと申す古典などを知らないでも済みます。(以下略す)

元和2年(2,616)4月17日、徳川家康は駿府城内で、苦難と栄光に満ちた一生を終わったのであるが、基宿は、将軍秀忠の名代として土井利勝と共に、久能山葬儀場で葬儀全般の指揮を取った。
しかしその5年後の元和7年(1,621)76才で病歿し、宿芦寺に葬られた。その宿芦寺には、基宿以下基暢(もとのぶ)までの各城主の墓十基が、本堂左手の小高い丘の上に立ちならび、いずれも苔(こけ)むして刻まれた文字は読みにくいが、その大きさといい、その形態といい、またその墓の数といい、まことに城主にふさわしい品格を持ち、静かな環境のもとで、堀江城五百余年の歴史を物語っている。
このような墓を宝篋印塔(ほうきょういんとう)といい、極めて珍しい形式で、近隣では小笠郡大須賀町横須賀の選要寺に2基、蒲郡市の安楽寺に1基(市の文化財)ぐらいのものであろう。
そもそも宝篋印塔というのは、宝篋印陀羅尼経(だらにきょう)を納めた塔で、インドのアショカ王が仏舎利(ぶっしゃり)(シャカの遺骨)を分けて8万4千の塔を建てた故事にならい、中国の呉越王銭弘淑(せんこうしゅく)が同数の銅塔を造って諸国に分与したもので、一部はわが国の金胎寺(きんたいじ)}(京都)、金剛寺(大阪)などに残っている。この影響を受けて、供養塔、墓碑名として、同形で簡略化したものが各地に造られた。現在のものの多くは塔身の四方に種子(しゅじ)を現わし、最古のものは鎌倉時代の初期にさかのぼる。
基宿の墓は、鎌倉初期から450年も後に造られたもので、この形式を採用するには長い時日を要した。すなわち、基宿の死したのは元和7年であるが、この塔碑を建てたのは寛永17年であるから、その間19年もかかっていることになる。しかしそれ以降は死去した年に建てられている。

高徳寺殿

10代大沢基宿
元和7年(1,621)死 寛永17年(1,640)建塔

慶安寺殿

11代大沢基重
元和7年(1,650)死 同年建塔

真光院殿

12代大沢基将
延宝6年(1,678)死 同年建塔

英輝院殿

13代大沢基恒
元禄10年(1,697)死 同年建塔

風月院殿

14代大沢基隆
享保15年(1,730)死 同年建塔>

現成院殿

15代大沢基朝
寛政3年(1,791)死 同年建塔

徳源院殿

arget="gif">18代大沢基昭
寛永6年(1,853)死 同年建塔

清源院殿/h4>

19代大沢基暢
文久2年(1,862)死 同年建塔

祥雲院殿

17代大沢基之
文政5年(1,822)死 同年建塔

大智院殿

大沢基昭長子
文政2年(1,819)死 同年建塔

体窪院殿>

16代大沢定寧
安永5年(1,776)死 同年建塔

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