浜名湖畔歴史探訪記

堀江城物語

シリーズその4

文 宮本七郎


写真・図

●宿芦寺周辺●
●堀江城付近の米蔵●
●分家大沢氏の略系譜●
●堀江城周辺●
●図/江戸屋敷●
●表/歴代城主・領地●


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分家大沢基雄(もとかつ)とその子孫

基胤(もとたね)と妻定姫との間に生まれた長男が基宿(もといえ)であり、その次男が基雄(もとかつ)である。基雄は分家して大沢氏を名乗り、以来連綿と続いて現在に至っている。
ところで基胤の妻となった定姫は、入野村に住していた木寺宮の姫である。木寺宮というのは、正親町(おぎまち)天皇の第一皇子で、普通であれば皇位をつぐべきお方であったが、たまたま月蝕(げっしょく)の夜にお生まれになったということで、俗習によって皇位につくこともできず、更には諸郷や大臣からうとまれたため、局(つぼね)1人を召し連れて皇居を忍び出られ、遠州敷智郡入野村にご出幸なされ、御殿を建ててわびしい月日を送っていた。
そうしたある日、家康が入野の里に入って来たところ、宮の御殿の上に紫雲のたなびくを見、乗っていた馬の足も止まってしまった。ふしぎに思った家康は、近所の者にたずねると、里人は言う。
「この宮は大内家(朝廷)であらせられるのに、子細(しさい)があってここにお出でになる」と申すので、なおたずねると、「正親町天皇の第一皇子の木寺宮であられる」と答えた。
家康はここで直ちに宮様に朱印を差し上げるのも恐れ多く思われるから、局へ16石のご寄附をなされた。
木寺宮の姉姫は大沢基胤の奥方となり、二の姫は信州の島和久監物(しまかずひさけんもつ)の奥方となり、三の姫はお髪を落とされて竜門和尚と呼び、木寺宮のご法名を竜雲院殿と号し、崩御(ほうぎょ)後この寺を清湖山竜雲寺と称し、現在も同所にあってお二方の宮の石塔がある。
ちなみに、入野という村号の生まれたのは、「遠江風土記伝」の入野の条に「入野と号する所以(ゆえん)は、村の北に『入』江があり、村の南は『野』に富む、ということから古老たちがつけたものである」と書かれてある。
竜雲寺は以下のように、堀江城との縁が深いが、また佐田城とのあわれな関係も言い伝えられている。
佐田城が落城したのは大永2年(1522)の3月1日であった。
将軍足利義晴の軍が遠江へ出征して、今川幕下の持城を攻めたが、そのとき佐田城も攻められ包囲された。激しく応戦したがいたずらに死傷者が続出するばかりである。水は無くなる。食料は乏しくなる。今はこれまでと、闇(やみ)にまぎれて脱出する覚悟をきめた。赤々と焼け落ちる城を後にして、城主夫婦は船に乗って向こう岸に逃れようとしたが、そこにも敵は待ち構えていた。もう脱出する望みは失せた。ちょうど目の前に大きな岩が浮かび上がって見えたので、その岩にはい上り、いさぎよく自仭(じじん)した。
翌日、敵兵たちがその岩に近づくと、そこには奥方に抱かれて、生まれたばかりの赤子が眠っていた。さすがの敵兵もあわれを感じて、その子を育てることにした。この岩を稚児岩(ちごいわ)と言って、今も大草山と舘山の間に残っている。
その子はやがて木寺宮の竜雲寺に移し育てられて信忠と命名され、立派に成長し、その子孫吉久に至って安間の姓を名乗り、堀江城主に仕えて国家老となり、明治維新となった。
基浩(もとひろ)は通称左近(墓碑には右近)といい、元和7年(1621)奇(く)しくも本家の基宿の死去した年に、召されて台徳院に仕えた。時に15才であった。同9年御小姓(おこしょう)に列し、のち御書院番に移り米五百俵を賜った。慶安3年(1650)これも本家基重の死去した年の8月23日、さきに浅野長直に預けられた大久保将監(しょうげん)忠尚が死去したので、その検使役となって播磨(はりま)国赤穂に行った。
のち御書院番を辞して小普請(こぶしん)となり、明暦4年(1658)7月2日に歿した。年52。
三代基房以下の業績が不明なので、小石川にある祥雲寺の墓碑に刻まれた法名と歿年月日を記すに止どめる。

三代 大沢基房 凍雲院殿檗応雪鉄大居士
元禄6年11月10日
四代 大沢基政 普照院殿慈山宗眠大居士
亨保18年12月18日
五代 大沢雄誰 天真院殿晴雲亮月大居士
明和8年6月19日
六代 大沢雄庸 観殻院殿百中道箭大居士
寛政10年2月2日
七代 大沢基期 秋皎院殿月心法泉大居士
文政元年8月2日
八代 大沢基昌 玄冬院殿月外祖伝大居士
嘉永7年10月17日
九代 大沢甚之丞 寛中院殿恭山静徳大居士
明治27年12月19日

基浩(もとひろ)の次男基則(もとのり)は通称を源五右ェ門といい、万治元年(1658)12月18日分家して、武蔵(むさし)国埼玉郡の内200石を賜わり小普請となり、同2年7月11日小姓組の番士に列し、同3年12月26日新恩100俵を賜わった。天和元年(1681)10月15日に歿し祥雲寺に葬った。
二代中基は幼名を松之助といい、のち源次郎と称し、更に忠左ェ門と改めた。野村彦大夫夫為利の六男で、母が基浩の娘であった関係から、基則の養子となった。天和元年12月23日に基則の跡をつぎ、元禄2年(1689)4月29日小姓組の番士となり、同9年12月22日、日ごろの精勤を賞せられて黄金2枚を賜わったのち、番士を辞し享保11年(1726)8月2日歿した。年62。
嫡子源五右ェ門が三代目をついだが、その子甚九郎(四代)に至り、延享3年(1746)家が絶えた。

基重の大阪両陣合戦の参加と江戸屋敷

基重は慶長15年(1610)9才のとき、従五位下侍従兼右京亮(うきょうのすけ)に叙任されて将軍秀忠に近侍する。この年、敷智郡のうち千石を加増されて1,556石余の知行となった。
慶長19年10月、父基宿が大阪冬の陣に参戦したので、基重も13才で水野隼人正(はやとのしょう)忠清に属して加わった。続いて元和元年(1615)5月の夏の陣にも出陣して首一級を得た。
「天下分け目」と言われた関ヶ原合戦は、慶長5年(1600)9月、東軍7万(徳川家康方)と西軍8万(石田三成方)が、岐阜県の関ヶ原で一大決戦を行ったのであるが、小早川秀秋の寝返りをきっかけに西軍は総崩れとなり、東軍の一方的勝利に終わった。
そして家康は征夷大将軍に任ぜられて江戸に幕府を開いたが、しかし秀吉の恩顧(おんこ)を受けた大名も数多く残っており、大阪城も難攻不落を誇っていた。
そこで家康は、京都方広寺の鐘名「国家安康、君臣豊楽」の言葉に難くせをつけて、慶長19年に大阪冬の陣、翌年には夏の陣を起して、ついに豊臣氏は滅亡したのである。
こうして応仁の乱(1467)以来の戦乱は150年ののち全く終って平和が達成されたのである。
基重は元和元年父の病死によってその跡をつぎ、寛永2年(1625)6月、家光に従って上洛したのを始めとして、寛永11年、同18年、慶安2年(1649)にも家光に従い、または家光の名代として上洛している。
寛永2年に幕府は、一万石以下の小領主にも、江戸宅地制を定めて、速かに家宅を築造せよ、と命じた。

200石─300石は20間に30間
400石─700石は25間に30間
800石─1,500石は30間四方
1,600石─2,500石は33間四方
2,600石─3,500石は30間に40間
4,000石─6,000石は40間に50間
7,000石─10,000石は50間四方

基重もこれに応じて江戸屋敷を造った。
この制度による家宅の大小広狭は領有する石高の多少によって決められた。この規定によって、基重は33間四方の家宅を榊原(さかきばら)式部の隣りに作ったが、230年の安政2年(1855)10月2日夜の、江戸を中心とした大地震には大きな被害を受けた。
この時には遠州地方も、3月ごろから異変が起きて、堀江の人たちは苦しんだ。堀江に住んでいて日記を書き続けた新村松助は、その当時の模様を次のように書き残している。

安政2年(嘉永8年)3月18日秋葉山大々講修行。春中雨重なりて大麦6分。6月20日高汐4尺程のぼる。6月1日より高汐来る。同じく4日朝五つ時(午前8時)大高汐5尺程ものぼる。その後同月19日朝四つ時(午前10時)大汐4尺ほどのぼる。度々の汐のため所々の川崖(がけ)や堤防脇に土盛りしたので、御上様(堀江城主)より弁当代として金50両大中庄屋へ下され、村々の堤防の間数に応じて分けた。一間につき64文(もん)で、堀江村では計800文で場所は小東川崖堤である。
同7月15日高汐4尺程のぼる。同26日風荒く高汐ものぼる。古今稀な高汐で、我等が居る屋敷へ汐来たり庭へ3寸余りも入った。風荒く田畑共に大違作。
また8月20日に大汐が夜の四つ時(午前10時)に8戸ものぼる。当家のかまちの半分頃までつかる。同夜七つ頃(午前4時)汐が引いた。西風荒く所々の大蔵や小家など数多く流された。大根、かぶらなど作柄悪く、そばは種子も無い。
9月28日夕六つ時(午前6時)大地震、同10月2日夜に江戸大地震、家こわれ出火のため死人が多かった。大沢様の御屋敷がこわれ、このとき国家老の安間猪忠太様、そのほか大中庄屋、村櫛の平衛門、呉松の九内、外に高塚太郎ェ門、和田の大工勘左ェ門らが江戸表へ下り、色々と普請についての評定を取りきめ、江戸表の御長屋、国普請となり、右総代の人数は10月12日に国元を出発して12月7日に帰国した。江戸は大混乱、と。

高家の役目に追われた基将

寛永10年(1633)2月19日始めて将軍家光に謁見(えっけん)する。時に15才。
正保元年(1644)12月29日奥高家に列し、従四位下兵部大輔に叙任される。3年12月1日侍従にすすみ、慶安3年(1650)8月10日基重の死によりその後をつぎ、のち度々京都に使いを果した。
明暦元年(1655)10月9日朝鮮の使節が日光に参拝するというので、準備のため日光に出向いた。
寛文2年(1662)5月8日には、京都の地震により朝廷の御気嫌(きげん)伺いのため御使いとして上洛した。同3年3月25日、霊元(れいげん)天皇の御即位慶祝のため、松平出羽守直政と共に京都に出向し、6月3日従四位上少将に昇進した。
これより先、後水尾天皇より大沢を詠んだ歌の色紙を賜わり、また東福門院(秀忠の女和子)より鴨の蒔絵(まきえ)の硯(すずり)箱に色紙を添えて賜わった。
廷宝6年(1678)病気のため、相模国塔ノ沢温泉で療養したが、7月20日彼の地で死去した。年60。

慶祝のため度々上洛した基恒

基恒は藤堂大学頭(かみ)高次の4男に生れ、基将の養子となる。
寛文6年(1667)10月23日始めて将軍家綱にまみえる。時に12才。同11年12月23日より奥高家に列し、12年12月28日従四位下侍従兼右京大夫に叙任される。
廷宝6年(1678)12月6日、父基将の後をつぎ、同7年3月7日霊元院が疱瘡(ほうそう)にかかり、御全快のとき慶賀の御使いとして京都に赴(おもむ)いた。8年8月12日従四位上に昇り、天和2年(1682)12月14日、皇太子宣下に際して祝賀のため、将軍の御使いとして京都に行き、3年3月7日命により、吉良上野介義央(よしなか)、畠山飛弾守義里と交替で月番を勤めることになった。
貞享4年(1687)4月7日東山天皇御即位により、松平肥後守正容(まさたか)に従って上洛し、5月25日少将に任ぜられ、この日羽織三領を賜わる。
元禄7年(1694)4月晦日(みそか)、綱吉と桂昌院(綱吉の母、本庄氏)が本庄因幡守宗資(むねすけ)の邸に行ったとき、お供をしたので本庄氏から時服を賜まう。
元禄10年閏(うるう)2月29日42才で死去した。

新加増を受けた基隆

母は本庄宗資の女で基恒の養子となり、元禄10年7月11日、10才で基恒の後をつぎ8月28日始めて綱吉に謁見して、父の所蔵していた青江直次の銘刀を献じ、また桂昌院に飛鳥井栄雅の伊勢物語を献上する。
元禄15年12月18日、すなわち大石良雄ら赤穂の浪士が吉良義央を討ち取った直後、従五位下侍従に叙任され、右衛門督(すけ)を兼任する。そしてこの日より奥高家の席につく。
宝永2年(1705)3月23日、新たに遠江国豊田、山名、敷智三郡のうち、東貝塚、向笠新屋、片草、高塚、津々木、上田、深萩の千石を賜わった。
宝永5年11月23日西城の御側高家となり、同6年4月15日従四位下に昇り、正徳2年(1712)10月7日御側近く勤務したことにより、織田能登守信門と同じく諸事を勤めるようになった。
しかし同3年6月、行状良からざるところありとて、職を奪われ出仕を留められ、雉子(きじ)橋の宅地までも没収されて寄合(よりあい)となったが、10月3日許されて元の地位となった。享保15年(1730)7月15日42才で歿した。
ちなみに、大沢氏の所領増加の経過を表示してみよう。
なお、国役高の覚、として国家老家に残された記録は、

一、高 4,480石5斗8升7合
但し拝領高並びに改出新田共に敷智郡17ヶ村
一、高 44石1斗9升5合
但し同断豊田村1ヶ村
一、高 289石5斗6升3合
但し同断山名郡1ヶ村
一、高合計4,814石3斗4升5合
外に高5石 御朱印寺領
高10石 御朱印社領
右総高合計 4,829石3斗4升5合

将軍元服の使者として上洛した基朝(もととも)

享保15年(1730)10月5日、13才をもって父の後をつぎ寄合に列せられ、同月始めて将軍吉宗に謁見、20年10月28日菊の間に伺候するよう仰せつかる。
元文元年(1736)12月16日奥高家見習となり、従五位下侍従兼丹波守に叙任され、同4年4月22日奥高家となる。
寛保元年(1741)8月27日家治(いえはる)が元服して官位の式を挙げるにより、御使として上洛し、10月27日従四位下となる。
同3年7月11日事情があって職を解かれ、寄合となったが9月17日許され、宝暦2年(1752)4月9日より出仕することになった。同3年6月18日74才で死去した。

定寧と基之

(イ)定寧(さだやす)

長兄直太郎が早世したので宝暦3年4月9日、12才で家督をつぎ寄合となる。同11年12月9日始めて将軍家治に謁見し18日表高家に列し、13年3月15日より菊の間に伺候して幕務をとる。同年12月18日奥高家見習となり、従五位下侍従に叙任され相模守を兼ねる。明和4年(1767)12月11日奥高家となったが、安永5年(1776)9月11日36才の若さで死去した。

(ロ)基之(もとゆき)

井伊谷の近藤登之助(のぼりのすけ)の六男で、母が米津出羽守の女であった基之が、定寧の養子となって17代の城主となった。
安永5年12月14日17才で3,556石の定寧の後をつぎ、9年11月18日始めて将軍家治に謁見し、寛政元年(1789)7月1日より菊の間に伺候し、4年12月16日から奥高家の職を見習い、この日従五位下侍従に叙任されて右京大夫を兼ねた。6年8月21日には奥高家に列せられた。
文政3年(1820)8月、嫡子相模守基栄(もとたか)が死去したので二男基昭を嫡子とした。
文化から文政にかけて外国船が次々と来航して通商をせまり、世情は漸やくさわがしくなり鎖国政策も崩れようとしていた頃ではあったが、いな、それだからこそ、幕府は、家康の二百回忌の法事を盛大に行うことになり、その重要な日光奉行を基之は命じられたのである。
基之はこの大役を無事に果すには神助にすがるほかはないと、日光へ出発の前に、堀江の愛宕神社、呉松の鹿島神社、津島神社へ参拝して祈願をこめた。境内の神々しい雰囲気に打たれて、今度の大役は必ず成功する、と家臣に語っている。果せるかな、4月7日から始まった法要は16日に無事に終ることができた。
文政5年6月63才で死去した。

次号につづく


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