浜名湖畔歴史探訪記

堀江城物語

シリーズその5

文 宮本七郎


写真・図

●和宮行列の図●
●安間家の系譜●
●明治初期の大沢基寿●


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五、堀江城の後期
日光への使者を果たした基昭
文政三年(1820)11月、初めて将軍家斉に謁見し表高家に列せられ、同年12月従五位下侍従に叙任、式部大輔(しきぶたいふ)を兼ねる。
文政8年12月、基暢(もとのぶ)の出生を届出る。基暢は出生後から虚弱であったため、届出を見合わせていたが、健康に成長したので3年おくれて届出を済ませた。
文政10年4月、家斉の太政大臣宣下と家慶の従一位昇叙を報告するため、日光への使者を勤めた。
弘化2年(1845)10月に奉納した鹿島神社の額によると、その頃の江戸詰の家臣群の名前が記されている。
中村卯之助 藤原信輝 
内田録太郎 藤原正行
新村万之助 藤原政久
山川作太郎 藤原春世
希井秀太郎 源 直敬
今井新太郎 源 正兼
内田理兵衛 藤原正棋
新村 東助 藤原政利
柴山幸之助 藤原尹氏
岡元彦之助 藤原正竹
和合源左ェ門 源 信賢
林 清左ェ門 紀 知一
酒井 要一 藤原文奉八
岡崎武兵衛 藤原輝光
青山之助 藤原守利
浜野平右ェ門 源 従親
松本 丈助 藤原秀貫
岩手 兵衛 信 信寿
守山久三郎 源 義邦
伊丹貞之丞 源 利勝

幕末の波瀾を乗り越えた基寿(もとひさ)
(イ)越前鯖江藩主の娘と結婚
井伊直弼(なおすけ)は安政5年(1858)4月23日に大老となったが、時の主席老中阿部正弘などが穏健妥協的(おんけんだきょうてき)態度を取ったのに対して、独裁派の直弼ことごとに対立し、その上将軍の世継ぎ問題もからみ、更には勅許を得られぬまま、米国との修好通商条約に調印するなど、独断専行の振舞いが多かったので、世論の激しい非難を浴びた。直弼はこれに対して武断的弾圧を加え、梅田雲浜、橋本左内、吉田松陰など志士50余名を捕らえて死刑その他に処した。これを安政の大獄というが、これは却って反対派の激怒を買い、その結果、水戸の浪士たちによって桜田門外で殺害された。
こうした騒然たる世情の中で、基寿は万延元年(1860)3月高家に列せられて、4月26日に従五位下侍従に叙せられ、文久2年(1862)11月には従四位下に昇叙されて、京都の御厩(おうまや)係を勤めることになった。基寿については、明治44年まで生存していながら、その出生年月や死亡年齢が不明である。従って、いつ結婚したかも想像の域を脱し得ないが、その奥方は、越前国(福井県)鯖江藩五万石の間部(まなべ)下総守詮勝(あきかつ)の娘であることが、「華族略譜」によって明らかである。基寿は文久2年(1862)12月25日に家をついで右京太夫となっているので、恐らくその頃の結婚であろう。
婚前、父の右京太夫方に引き取られ、「間部下総守の娘と婚姻相調えたき旨」を願い出たところ、願いの通り仰せ付けられた旨を、稲葉美濃守正邦を通して伝えられた、と「徳川実記」に見えている。

(ロ)安間、遠藤両家の本家争い
天保の終りから弘化、嘉永、安政、万延、文久にかけて、わが国は内外にわたって物情騒然たる時期であった。すなわち、天保の改革、外国船の来航、海防の厳守、天草の一揆、大船建造の解禁、開国と通商条約の締結、そして安政の大獄から志士の処刑や直弼の殺害と続き、更に坂下門の変、生野(いくの)銀山の変、蛤御(はまぐり)門の変となり、大政奉還へと大きく推移した。
その頃、堀江領内でも安間、遠藤両家の本家争いが激しくなった。そもそもこの争いは、両家の系譜がはっきり残っていないところから起こった。
庄内半島には、堀江城のほかに志津城、佐田城があったが、両家とも佐田城主五代目堀江為清を祖先にしていることには異論はないが、安間家は為清の長男清泰の子孫であるとする説の多いなかで、為清の三男景誠(かげさと)が遠藤氏を名乗り、その子孫から分家したのが安間家である。と遠藤家は言うのである。その系図を見よう

こうしたことから、将軍基暢当時から始まった長い間の本家争いも、基寿の時になって村役人の仲介により、安間氏が本家ときまって一応の解決を見たのである。
しかし遠藤氏は、これを不満として度々再仲介を申し出たので、村役人は江戸表へ伺いを立てたところ、万延元年(1860)6月になって、遠藤新蔵を江戸表へ呼び出すことになり、庄屋の源八、組頭の久衛門の両人並びに足軽の伊原、林の四人が新蔵に付き添って江戸へ出た。そこで取調を受けた結果、遠藤氏が再び分家ときまり、その上新蔵は詫び状一冊を差し出すこととなった。
しかしこのたびの一件について、江戸表より、金平、彦三郎、半四朗の三人がそそのかした疑いがあるから出頭するよう申し付けたことから、村方の小百姓一統83人が徒党を組んで、江戸へ出発すべく、9月23日の夜ひそかに村を離れて、すでに見付宿まで到着した。このままでは騒ぎが大きくなると心配した村方は、内山、呉松の村役人に後を追わせて、江戸行きの中止を説得させたが聞き入れられず、沼津宿まで来てしまった。すでに連絡してあったのか、沼津宿の問屋役人に見つかり、10月10日問屋役人に連れられて村に帰った。
越えて万延2年2月下旬、江戸家老浜野平右ェ門の用人石橋三郎兵衛が堀江陣屋へ来て、再度の取調を行い、金平、半四朗の両人は堀江から追放され、彦三郎ほか四人が入牢となって、この本家争いも遂に決着を見たのである。

(ハ)和宮(かずのみや)内親王の降嫁に付添役
安政五年(1858)4月23日、大老に就任した井伊直弼は、6月19日勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したが、同月25日には、自分が推す紀州藩主徳川家茂を将軍の後つぎに決定したことを公表し、同時に一橋派の諸候を処罰した。こうした事態のなかで、朝廷が一橋派に推されて政治的役割を持つようになってきた。
8月8日、朝廷は幕府が勅許(ちょくじょう)を得ないまま調印したことをとがめ、幕閣改造の勅諚を幕府と水戸藩に下したが、直弼は10月25日には家茂の将軍宣下を実現した。
孝明天皇の御妹和宮内親王の降嫁問題が論議され始めたのは、ちょうどその頃であった。和宮の降嫁による公武合体は、直弼の後をついで老中になった安藤信正らによって、朝廷と幕府の緊張した関係を緩和しようとするものであった。
和宮は弘化3年(1864)5月10日に誕生したが、成人になられると、有栖川(ありすかわ)宮熾仁(たるひと)親王との結婚が成立し、安政6年4月には輿入れが決定していたのである。
降嫁問題が正式に朝廷と幕府の交渉問題となり、幕府は老中連署で九条関白に申し入れ、同関白は安政6年5月1日、天皇に奏上したが天皇は5月4日これを断った。しかし幕府も引き下げられない。勝光院(和宮の生母)や、その兄橋本実麗(さねあきら)に手紙を送って内部から切り崩し、反対していた徳大寺公純(きんいと)や中山忠能(ただよし)には弾圧を加えた。
こうした複雑な経過のなかで、解決案を提起したのが岩倉具視(ともみ)であった。それは、和宮降嫁に応ずるなら、今後外交問題はもちろん内政についても必らず奏聞(そうもん)のあと実施する。というものであった。
この結果、関東下りをきらっていた和宮も、やむなく文久元年(1861)12月20日中山道を江戸へお下りになった。政略結婚の犠牲になられた和宮の悲壮な心境は、次の歌によく表れている。

 惜しまじな
  君と民との為ならば
   身は武蔵野の
    露と消ゆとも

このとき付添役として大行列に参加した大沢基寿は、また高家の役目として、降嫁の段取りなど周到な計画を立てたのである。

(ニ)将軍上洛につき御用金と船の出役
文久3年(1863)将軍家茂が上洛するにつき、京都行き御供人足を大沢領で12人出すことになり、正月4日江戸表へ出立した。
これより先、文久2年の冬、将軍家より講賤別と言って、知行高千石につき3人ずつ出すよう仰せられたので、堀江領分より11人差し出した。この11人には給金として1ヶ年1人金十両と定め、その半金は将軍家より出すことなり、残りの半金は堀江領で出さねばならなかった。
その節、江戸屋敷より国元の庄屋へあてて、2、3人を江戸へ向けるように言われたので、呉松村の九内、内山村の忠右ェ門、白州村の藤康の3人が江戸表へ行ったところ、「明年は将軍様が御上洛なさるので、当方にもお供と御用金を仰せ付けられ、御用金の方は辞退したが許されず、よんどころなく金千両を引き受けた。」とのことであった。
文久3年2月13日、将軍家茂は江戸を発して東海道を京へ向かった。随員は、先供榊原式部、老中板倉周防(すおう)守、水野和泉守を始め、総勢3千人、時節柄行列は簡略にしたがそれでも大変な出費となった。
3月4日二条城に入り、7日に参内して孝明天皇に拝謁した。3代将軍家光以来200余年にわたって無かったことである。今や朝廷と幕府の重みが逆転したのである。それを糊塗するためにも、先例によって家茂は、市民に大金を振舞った。なんと6万3千両、1軒当たり1両1分の土産代に市民は大いにうるおった。
その一部の金額が、昨年正月18日堀江領へお達しがあったのである。

 一金千両也 御領地村々より献金

このため領内に寄付を割当てた。その主なものは左記の人たちである。

二百両 小野田五郎兵衛(高塚村)
三十両 十郎兵衛(白須村)
二十両 多康(白須村)
二十両 喜平(白須村)
二十両 喜右ェ門(都築村)
十五両 善六(平松村)
十五両 繁八(内山村)
十五両 清康(内山村)
十五両 清三郎(堀江村)
十五両 源左ェ門(呉松村)
十両 庄五郎(村櫛村)
十両 ほか二十一名
計金五百八十五両也
不足分四百十五両也
この分は領民一般へ割当てた。

文久3年3月4日将軍以下京都に入ったが、大名、旗本もそれぞれの宿舎に入った。
入京前の2月25日に、将軍が今切の渡しを通行するにつき、道中奉行の頼みとして、新居宿の問屋より堀江領へ船九十艘を出すよう申し入れがあった。そこで堀江村15隻、和田村5隻、細田村5隻、白須村25隻、村櫛村40隻を出した。1隻について舟賃2両ずつを新居問屋より受取った。
さて4月7日に将軍は天皇に拝謁を済ませたが、その後家臣たちはそれぞれ各自に国元へ帰ったり、江戸表へ戻ったが、大沢基寿の足どりをさぐって見ると、2月1日に江戸表を出発、同16日に京都へ着いた。それより6月21日まで、京都油ノ小路竹屋町下ル枡座に宿泊した。
6月21日京都を出発して27日堀江の陣屋に立ち寄り、28日には家老安間宅へ寄られて陣屋へ帰る。29日陣屋を出て四軒家より船で呉松川崖蔵下へ着き、神明宮、鹿島大明神へ参拝して、平松より船に乗り篠原村を経て、高塚村の小野田五郎兵衛方へ立ち寄り、倉松村へ出て海辺を見物され、その夜は寿福寺に一泊して、浜松宿から江戸表へ帰った。
同年11月下旬、将軍はまた上洛し、諸大名、旗本も上京したが、この時は海路蒸気船を使った。

(ホ)長州征伐に際しての助郷役
文久4年(1864)4月上旬より日照りが続いて苗代田の水不足となり、麦時には雨が多くて農民は天候に苦しめられた。また6月1日より大日照りで7月21日までに5回も鹿島神社で雨乞いをした。
5月上旬舞阪宿より助郷役(宿駅常備の伝馬人足の不足を補うため、人馬の提供を郷村に命じた。この課役を助郷役といった。)を申して来たので、農民の苦しみを理由に、これを断ったが道中奉行は許してくれない。そこで内山村の忠右ェ門、細田村の三四郎両人は5月晦日(みそか)国元を出立して江戸表へ願い出て、8月に帰国したが、思うような返事は得られなかった。
文久4年8月第一次の長州征伐を行うため、将軍自から江戸を進発した。これにより道中の宿々へわらじなどの供出を申し付けた。舞阪宿よりは、庄内九ヶ村のほか伊左地、左浜、大人見、小人見の村々へ、わらじ2万5千足、わら千束が割り当てられた。家老安間又左ェ門は中泉の役所へ願い出て、やっと堀江領の村々は御免になって喜んだが、今度は新居宿より渡船の役を申し付けられ、これまた安間家老が中泉の役所へ願い出、その上、新居役人へ大中の庄屋が出向いて事情をくわしく話し、また道中奉行まで願い出たので、漸やく聞き届けられた。しかしそれは、村櫛、和田、堀江、細田、白須、倉松の6ヶ村だけであった。
第二次長州征伐に際して、五月六日将軍は今切の海を舟で渡ることになり、渡しの舟の役を道中奉行より堀江藩に申しつけたので、堀江藩では新居宿問屋の役人へたびたび断りの出願をしたが許しが無く、江戸表の道中奉行まで行ったが取り上げられず、止むなく舟百隻を差し出した。堀江村二十隻、和田村十隻、村櫛村四十隻、細田村三隻、白須村二十五隻、倉松村二隻、であった。
ここで長州征伐についてごく簡単にふれておこう。
公武合体派である薩摩藩は、京都における幕府勢力の中心である会津藩と提携して、朝廷における長州藩の勢力をくつがえし、長州藩に代わって政治の主導権を握ろうと謀った。その結果、文久3年(1863)8月18日ついにクーデターが決行されて、長州藩は京都から追い払われた。
しかし京都を追われた長州藩士たちは、勢力の回復をはかり、会津、薩摩の藩兵たちと衝突し、蛤(はまぐり)御門の附近で激戦を行ったが敗退した。長州勢の敗退に乗じて、幕府は朝廷を動かして長州征伐の命令を出させた。これが第一次長州征伐である。
元治元年(1864)8月のことである。
ちょうどそのころ、英、米、仏、蘭の四国連合艦隊は、長州藩の下関砲台を攻撃してこれを屈服させた。長州藩は腹背(ふくはい)に敵を受けることとなって苦境に陥いり、四国連合艦隊に降伏したので攘夷(じょうい)派の勢いは全く衰え、幕府に恭順の意を表したので、幕府も長州征伐の軍を説いた。
幕府は、当時イギリスとアジア市場をめぐって対抗していたフランスと組んで、その物質的、軍事的援助のもとに、幕府の権力を強化しようとした。またフランスは幕府を援助することによって、日本に統一国家を作り、フランスの勢力下に置こうとした。
また一方薩摩藩では、薩英戦争を通してイギリスの実力が予想以上に強いことを悟り、積極的にイギリスとの接近を計った。イギリスとしても、日本をイギリスの勢力範囲にするために、しきりに武器や弾薬を輸入させ、造兵、紡績などの近代的工場の設立を援助した。
この情勢を見た土佐藩士坂本龍馬、中岡慎太郎らは、藩長連合を策し、薩摩の西郷、大久保、長州の木戸、高杉らに熱心に説いて回った。その結果、ついに慶応2年(1866)京都で藩長連合の約束に成功し、両藩は力を合わせて倒幕に進むことが誓われた。このように藩長の二大雄藩が、開国、尊王、倒幕の線で固く結ばれたことは、幕府の運命を決定的にしたと言えよう。
フランスの支持を得て勢いづいた幕府は、慶応元年長州を押さえようとして朝命を乞い、その年5月将軍家茂はみずから兵を率いて江戸を発し大阪城に入った。これが第二次長州征伐である。しかし、すでに藩長の盟約が成立していたので、薩摩藩は動かず、幕府軍は到る処で長州軍に破られた。その上、7月には家茂は大阪城で病死したため、幕府は兵を引き上げざるを得なかった。長州征伐の失敗によって、幕府の威信は全く地に落ちた。

(へ)徳川慶喜の大政奉還の上奉文を朝廷に伝奏
幕府では慶応2年12月5日、一橋慶喜が家茂の後をついで15代の将軍となった。
それから間もない12月25日、公武合体の態度を堅持していた孝明天皇が36才で急死した。反幕派による暗殺ではないかとのうわさも流れて、朝廷内部の倒幕急進勢力が活気づいて、幕府は益々苦境に立たされた。
一方朝廷では、明治天皇が16才で位に即いたが、始め公武合体派であった岩倉具視は、藩、長、土の志士たちと結んで、王政復古の計画を講じつつあった。岩倉は薩摩の西郷、大久保と連絡を密にし、また土佐の坂本竜馬、中岡慎太郎を介して、三条実美(さねとも)とも通じて倒幕運動を進めた。
そこで倒幕運動を進めていた藩、長、土の三藩はいよいよ東上することになり、これに応じて朝廷では慶応3年10月14日倒幕の密使を下した。
地方では、前土佐藩主山内豊信も後藤象(しょう)二朗の意見を入れて、幕府に大政奉還の建白書を提出した。慶喜は、時勢を判断して豊信の建白書を受け入れ、大政の奉還を朝廷に奏請した。翌15日これが勅許されて、ここに家康から15代265年続いた江戸幕府は滅び、同時に約700年続いた武家政治も終わりを告げたのである。
高家として大沢基寿は、大政奉還の際、将軍職及び内大臣などの辞表を持参して京都に行き、朝廷にそれを伝奏した。徳川慶喜の上奏文は次のようなものであった。

  大政奉還 徳川慶喜上奏文
臣慶喜 謹ンデ皇国時運ノ沿革ヲ考へ候ニ……況
(いわ)ンヤ当今外国ノ交際日ニ盛ンナルニヨリ愈々政権一途ニ出申サズ候テハ、綱紀立チ難ク候間、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ、広ク天下公儀ヲ尽シ聖断ヲ仰ギ、同心協力共ニ皇国ヲ保護仕リ候へバ必ラズ海外万国ト並ビ立ツベク候、臣慶喜、国家ニ尽ス所是ニ過ギズト存ジ奉リ候。

こうして慶喜は情勢を静観していたが、幕臣たちの不満は、鳥羽、伏見の戦いとなって現れた。この時の状況を、大沢基寿は「高家の話」の後段でこのように述べている。すなわち、
「私はそのとき、京都の革堂におりました。京都の大工頭の中井の火消しが、伏見に火事があると申して、例の京都の仕事師がゴリガンチャキチャキで出かけて行って、やっと戦争と言うことを知った程でした。しかし前年の十二月九日に御所の九門は藩長に渡し、京都の見回りなどは愈々始まったと申していますと、会津桑名の藩士などは小具足で抜身の槍を持ち、二条の御城へ参りました。日没になってから高家だけは御所へ参ることも差支えあるまいと申して参りましたが通しません。勅使が来ると申しますから迎えに参らなければならん、と申しますと、板倉さんが、勅使は勅使だが尾州公だから関係せんでもよろしい。と言いながら、手箱の中から白木綿の二尺ばかりあるのをくれまして、尾州公とは本末の間なれど、次第によれば斬るかも知れない。夜分ゆえ白の鉢巻きをせよと言われました。
それから方々に気を付けますと、衝立(ついたて)の陰も、橡の下も人が大勢かくれていました。しかし尾州公はおだやかに御談話にてお帰りになり、何事もございませんでしたが、その前後の軍(いくさ)評定は実に盛んなことで、大久保主膳正、高力直三郎、近藤勇などは激論を致し、松平隠岐守の嫡子伊予守などは主戦論である。しかし一方の国を聞きおけば天子様はお避けになる故、藩長はやってしまえと申され、慶喜公の御寝所へ参ってお起こし申し、御出座が無ければ本来の関係も今日限りとまで論じられましたが、慶喜公には少しもお聞き入れがございませんでした。
その夜が明けましたから、私は肩衣(かたぎぬ)で御所へ出ました。家来は僅かばかり連れましたが、御門は大砲で固めていますから、その由を申しましたら、非蔵(くらんど)人に取り次ぎ、非蔵人が、この人は通してもよい、と申しましたから、1人で入れと申す故、御台所門から入って見ますと、御門内は八人、十人と組々に分かれ、鉄砲を持って巡邏(じゅんら)をしております。勘使(かんづかい)の口へ参りて見ますと、禁裏附(きんりづき)の武家の大久保と岡部が御用箱は投げ出して1人も居らず、これは何事かとあきれておりますと、表役の女中が参り、どうなることです。御附の武家は居らず、と泣き出しそうですから、私は申しました。決して朝廷に対し何事もありません、武家同士のことでござります、と慰めました。もう少しおれとのことで、御馳走など頂戴しましたが、昨日までの大納言、中納言も伝奏も一人もおらず、実に大変なことでした。
私は御用箱を持って二条へ帰りましたが、禁裏附は廃せられました。その時女中より私に毎日出勤せよとの沙汰がありました。
さて二条城では、かなえの沸くような騒動で、慶喜公は一刀斉を召され御刀を賜わり、汝は此処に在りて鎮撫せよとの御意でしたが、御玄関は会津が抜剣で固めておりました故、御庭の門より出御になり、御あとには御目付の梅沢孫太郎、山陵奉行の戸田と私の3人が残って散乱している物を片付けました。
やがて梅沢と戸田は大阪へ下りましたが、私は温恭院様の御贈位か何かで江戸へ帰りました時には、下に、下にと申させて威張りました事でござりました。」

さて、鳥羽、伏見の戦いで敗れたものの、なお会津や桑名の藩士たちは幕府のために抵抗を試みた。江戸では薩摩藩邸の襲撃事件などがあって混乱は続けられ、官軍が近く御親征とのことで、幕府は江戸詰の大名や旗本、高家などに対して、それぞれ国元へ帰るよう指示があったので、大沢藩も慶応4年2月16日家中一同が引き上げ、堀江村や内山村の寺々へ落ち着いた。
朝廷では有栖(ありす)川宮熾仁(たるひと)親王を東征大総督に任命し、藩長以下20余藩を官軍として江戸へ進発させた。その出発に先立って、東海道の親藩尾張に使者を送って協力を求めた。藩主徳川慶勝は、これに反対することはできないと判断して、協力を約束すると共に、三河、遠江、駿河の諸藩へ勤王勧誘使を送って、勤王証書の提出を求めた。
浜松、掛川、横須賀の各藩では、この事態にどう対処したらよいかについて藩論が、佐幕か倒幕かの2つに分れたが、結局尾張藩に同調することになり、堀江藩も同様に勤王証書を出した。

(ト)東征軍に対する協力
慶応4年2月、幕軍討伐のため東征軍は江戸へ向って進発したのであるが、それより先、大沢藩の国家老安間又左ェ門は、伊勢の桑名宿において、先鋒隊の総督橋本少将と副将柳原前光(東海道先鋒副総督鎮撫使)の両人に面接して次の達しを受けた。

一、 今切の賊徒を防ぐため
出兵を仰せ付ける。
一、 朝敵追討の総軍勢の今切舟渡しを
仰せ付ける。
総軍勢とは薩州、津、備前、佐土原、
亀山、水口、大村、因州、越前の諸藩
その他を指す
一、 新居、舞阪、浜松、見付、袋井五ヶ宿の
兵糧人馬の御用を仰せ付ける
一、 同年二月下旬、大総督有栖川宮御進軍
中参謀稀川
(はしかわ)備中殿、松室伊予殿、
林玖十郎殿などの指導を受けて
御用を勤めること

続いて、大沢基寿の所へ書状が届いた。

その方の家は往古より勤王の大志があり、今般朝敵追放を仰せ出されたについては、段々の申出神妙である。然るところ今切舟渡し並びに領分三カ村の人馬の手当など願い通り申し付けるから、総軍勢をとどこおりなく通行できるよう取り計らうこと。
若し賊徒らが見えたならば、迅速に討ち取り、尚この上とも忠勤をぬきんずべきこと
  辰二月     総督 実  梁
(みつはし)
          副将 前  光
     大沢右京大夫殿

この書状には書かれていないが、今切舟渡しに当り、安間又左ェ門は自費をもって、御召船一隻(十二丁ろ)を新木で造って献上したことが、同人筆録の写しに見える。
更に続いて二人の参謀から大沢基寿にあてた書状が届いた。

東海道鎮撫府御下向並びに総軍勢進撃につき、舞阪駅、馬郡駅、坪井村、笹(篠)原村などの人馬とどこおりなく差出すべき段、御沙汰があったが、尚重ねて拙者(せっしゃ)共より相違する。
  辰二月     参謀 木梨精一郎
             海江田武治
     大沢右京大夫殿
           御役人中

このような経緯によって、今切の渡船や人馬の世話をしたのが、基寿の朝臣としての最初の仕事であった。

次号につづく


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